こんにちは。
日本語教師になって7年の嘉成晴香(かなりはるか)です!
私は大学では「日本語」について学んだわけではありません。
ですが、縁あって資格をとることができ、日本語教師になることができました。
今日は、私が日本語教師になるまでを書いていきます。
日本語教師に転職したいと考えていらっしゃる方の参考になれば幸いです。
◇教師歴7年!日本語教師になるまでを振り返ってみる!
目次
▶日本語教師との出会いは大学時代のアルバイト先
▶日本語教師になるには?調べつつ夢を保留して地元企業に就職
▶結婚を機に日本語教師養成講座に通う
▶日本語学校で非常勤講師として・プライベートレッスンも始める
日本語教師との出会いは大学時代のアルバイト先
大学2回生の秋、先輩が入っていたある団体のバーベキューに誘われました。
予定も空いてるしと、私は友達といっしょに参加。
そこで出会ったのが、国際交流基金関西国際センターの日本語教師でした。
はるか
国際交流基金関西国際センターとは、関西国際空港のお隣の「りんくうタウン」にある施設で、世界中からの日本語研修生が、そこで短期で寝泊まりしながら日本語を学んだり、文化交流をしたり、また自分の専門分野の研究をしたりしているところです。
期間も、6週間のグループもあれば10ヶ月の団体もあったり。大学生もいれば、研究者もいるという、様々な人が集うおもしろい空間でした。
しばらくして、私はその先生のご紹介で、関西国際センターでアルバイトをすることになりました。
はるか
何をしていたかというと、主に日本語教師の先生方のお手伝いをしていました。
- 宿題やテストのコピー
- 漢字の教材の作成(書き順を矢印で書いたり)
- 授業が始まる前の教室設営(OHPの準備とか)
- イベント(報告会とか)の写真撮影
- 作品の掲示(研修生が文化体験した書道の作品とか)
- 自習室の本の貸出業務
- 会話練習の相手
はるか
世界各国から研修生はやってくるので、日本ではあまりなじみない国々からの方ともお友達になれました。
アルバイト後には施設内のレストランでいっしょにごはんを食べたり、キッチンで作ったお国の料理をご馳走になったり、施設内のカラオケでパーティーしたり。
休みの日は大阪観光やうちに遊びに来てくれたりと、日本にいながら私ほど国際交流している人はいないんじゃないかと思うほどでした。
初めて会った時から日本語がとっても上手な方も大勢いましたが、日本に来てから始めたという方もいて、その方々がどんどん上手になっていく様を、大学を卒業するまでの約2年間、見ていました。
私が日本語教師にあこがれない理由はありません。
日本語教師の業界のトップクラスの先生方が集まる関西国際センター。
先生方にもかわいがっていただき、「日本語教師、目指してみたら?」と言っていただいたことも。
今でも、私にアルバイトを紹介してくださった先生や、施設内の図書館の司書さんなど、お会いすることはできませんが、フェイスブックなんかを通じて気にかけてくださっています。
後に私が日本語教師になれた時も、すごく喜んでくださいました。
私は児童文学作家もしているんですが、拙著は出版する度にその図書館に持っていって、置いてもらっています。
日本語教師になるには?調べつつ夢を保留して地元企業に就職
大学を卒業した私は、地元和歌山の企業に就職。でも、「日本語教師になりたい!」という夢は捨てきれずにいました。
調べたところ、日本語教師になるには、いくつか道があるということ。
- 大学で主専攻、あるいは副専攻の日本語教育科目を履修し、卒業していること
- 日本語教師養成講座において、420時間以上の教育を受けていること
- 日本語教育能力検定試験に合格していること
はるか
この3つ、全部該当すればいいというわけではなく、どれか一つでもOK。
けれど、できれば①と②のどちらかがある方が、即戦力になりやすいのです。
③は通信教育や独学でもなんとかなることにはなりやすいですが、①と②は日本語教育専門の先生に教えていただくことになりますから、日本語学校での授業を見据えて勉強しやすいのです。
はるか
そうこうしているうちに、約1年が経ちました。
そして、2011年3月11日(金)、東日本大震災が起きました。
これがきっかけになり、私は結婚を決めました。
⇒「結婚前に夫と約束した3つのこと」
結婚を機に日本語教師養成講座に通う
結婚を決めてから、いろいろとすることが増えたので、私は一時「日本語教師」のことは忘れていました。
さて、その「いろいろ」の中の一番大きなことは、「引っ越し」でした。
和歌山から大阪に引っ越したので、会社には通えなくなり、退職。
そして、結婚後早々から「失業保険」を申請するためにハローワークに通いました。
そこで、また運命的な出会いがあったのです!!
それは、「職業訓練」というものでした。
職業訓練とは、国が授業料を負担してくれ、数週間~数か月、いろんな技術や資格をとるための補助。
私は「職業訓練」一覧のパンフレットを何の期待もせずにめくりました。でも、そこにあったのです!
はるか
申し込みの締め切りは、1週間後ぐらいでした。
あわてて申込書や志望動機を書いて提出。
すると、ハローワークの方が一言。
「人気だからねぇ。試験と面接があるよ」
はるか
そして、「日本語教師養成講座」の試験・面接の日。
1つの教室にまず集められた人数をざっと数えてみると、ざっと定員の3倍はいる……。
幸いにも試験は、真剣に日本語教師になりたいと思っていろいろ調べたのが功を奏し、わりと余裕。
問題は面接……何聞かれるんだろう。
こんなことを考えながら、面接の順番を待ちました。
順番は、おそらく受け付け順。
私はぎりぎりだったので、最後から2人目(笑)
教室内は冬だったこともあってエアコンがガンガンで、乾燥するったらない。
飲み物を忘れた私は、面接を待つ間、喉がカラカラ・ガラガラに。
そして、面接。
最後に一言、こう言われてしまいました。
「教師ってのは、声が大きくなくちゃやってけないよ。大丈夫?」
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
ここで何も言わなかったら、元気な時でも声が小さいと思われるかも!!
そう思った私は、なんとか声をふりしぼり、飲み物を忘れてしまったことなんかを言い訳(笑)
結果、なんとか合格しました。はい。
「職業訓練=かかるのは教科書代くらい」というのは、24歳の貯金もない私にとっては魅力的で、養成講座に申し込んでからは「もうこの道しかない!」と思いました。
パスラさん
なので、受かったのは、目の前がパーーーーっと広がったというか。
そんな感じでした。
日本語教師養成講座は、5か月。模擬授業に、その準備にと、想像よりずっと大変でした。
数時間しか眠れない日も何日もありました。
けれど、なんとか楽しいクラスメイト達と共に修了!
晴れて、「日本語教師養成講座420時間修了」という、日本語教師の資格を手に入れました。
はるか
私の日本語教師としての日常はこちらから……
日本語学校で非常勤講師として・プライベートレッスンも始める
2018年の現在、日本語教師は売り手市場と言われています。
教師募集の数も多く、人手不足の日本語学校も多くあります。
けれど、私が養成講座を修了した時には、先生にこう言われました。
「時給が安くてもいいから、とりあえずどこかの日本語学校で働けば、経験を得られてまた転職できる」
なるほど。
募集要項を見てみると、「経験者優遇」が目立ちました。
なので、最初から高望みせず、まずは経験を積むことが大事だと教えられたのです。
今、私は二つの学校でお世話になっています。
はるか
何が嬉しいって、地味に時給が上がってきたことと、間に出産で退職したんですが、また誘っていただけたこと!
プライベートレッスンは、実は日本語学校で教えるちょっと前から始めました。
よく考えると、学校で経験積んでからの方がよかったんですが、その時は怖いもの知らずで(笑)
初めての生徒さんは、バーで知り合ったイラン人の方でした。
◇おわりに
私が日本語教師になるまでを、ざっと振り返ってみました。
何気なく行ったバーベキュー、手にしたパンフレットが私の分岐点となったことがわかりました。
これからも、きっとこんなことあるんだろうな。
(そういや、夫に初めて出会ったのもバーベキュー)
日本語教師は、細々とでもずっとつづけたい仕事です。
定年、ありませんしね。
最近は、Twitter(@kanariharuka)を通して、各地の日本語の先生方と交流でき、とっても楽しいです。
これからも、夢は保留にすることがあってもあきらめないでいたいです。
写真は、日本語学校に勤務してから書き始めた「教案メモノート」!
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