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子どものやさしさをやさしく受け取ることに失敗した話

父母の似顔絵

こんにちは。

今日も細々と執筆と教師業をつづけております、嘉成です。

職業柄、「作家!」とか「先生!」だと立派な人の様に思われがちですが、謙遜できないことがむなしいくらい、そんな人ではありません。

ぼけーっとしてるし、細心の注意をはらったつもりでもいつも何か見落とすし、傷付きやすいわりに人に気遣えなかったりと、自分の底の浅さに日々愕然とするばかりです。

それを目の当たりにすることが、子どもが生まれてからより増えました。

今日は、後述しますがあることがあって、これまでのいろんなことを考えました。

立派な母親になるために何ができるか考えて努力したけれど

息子(現在5歳)は、結婚して4年目に生まれました。

それまでできなかったというわけでなく、夫も私も結婚当時24歳でまだまだ子どもで、結婚はしたものの自信がなかったんです。

はるか

ま、二人でいるのが楽しかったとも言う

私にとって「母親」とは偉大な存在で、考え方もしっかりしていてぶれることがなく、常にドシンとしているように見えました。

親になってから自分の母親と話したところ、実際はそうではなく、そうあるために心を強く保つ努力をしていたことを知り、ある意味安心もしました。

けれど、子どもの前だけでもドシンとしていられるのって、かなり大変なことだと思うんですよ。

小さいことばかり気にしてクヨクヨする私みたいなタイプは、尊敬してもらえるようなかっこいい母親にはなれない、としょんぼりしました。

たまに会う友達の前なら、見栄をはることだってできるかもしれませんが、子どもとなると家族ですからね。

つまり、毎日のことですから、どうとりつくろっても無理だ、と。

そこで、夫と「やっぱり子どもがほしいね」と話し始めたあたりから、私は理想の母親になるべく計画を立てました。

私の理想とする母親は、背中か横顔で語る母親。

好きなことを仕事にし、生きることが、誰かのためになれることがすてきだと見ていてもわかるような、そんな母親。

ということで、単純な私は夢を追うことにしました。

そして、夫や両親の支えの中、運よく日本語教師と作家という夢を二つも叶えました。

ほんとにラッキーだったと思います。

でも、これで私はベクトルがちょっとちがう方を向いた自信をつけてしまったんです。

「これで母親になるにはじゅうぶん!」とまでは思っていませんでしたが、変な達成感が芽生えまして。

生んでからびっくり。

はるか

いや、妊娠がわかった瞬間から、びっくり。

自分の体は自分だけのものではなくなるし、健康管理してるつもりでも悪くなったりするし。

一人の人間を育てるということは、自分一人がコントロールできることでは決してなかった、ということです。

生んでからも、その翌日に息子はNICUのある総合病院に救急車で運ばれるしで、いろいろありました。

そして産後半年ぐらい経って、ようやくわかってきたんです。

はるか

今までのとってつけたような経験なんて、何の役にも立たない。

役に立つのは、これまでの経験から心底わかった魂に刻まれたほんの一握りのものだけ。

要は、どれだけ肩書があっても、何を得ていても、自分でもごまかせない本質しか助けにならない、ということ。

ひー!!!!

そして、わかりました。

私が夢を追ったのは、0とまでは言いたくないですが、結局は自分のためだったんです。

もちろん、子どもをもつということが原動力になったのは確かですが、周りに迷惑をかけて追うことの隠れみのにしていた部分が少なくないなと気付かされました。

前までは、これを自分で受け入れることが難しかったんです。

でも、認めることにします。

失敗や非を認めなければ、進歩は絶対にないと私は思うんです。

私がやりたいことは、足ふみでなく前進。

認めることはけっこうしんどいし、心の中ざわざわするけれど、必要な戦いだと思います。

自分の失敗や非を認めることは苦しいけれど進歩のためには必要な過程

こう考えるようになったのも、理由があるんです。

一度、夫に「怖い」と言われたことがあって(笑)

いや、笑いごとじゃないですね。

体力に精神力、経済においても夫に何一つ勝るところがない私に、夫が放ったこの一言。

はるか

私の何が怖かったのか?

聞いてもうまく言葉にしてくれなくて、それを問い詰めたところがまず怖かったんだろうなと思います(笑)

今は多分……あれからもう何年も経ち、私も少しは変わったのでそこまで怖いとは思われてないように感じますが、

ほんとに申し訳なかったなと思うんです。

私は正論だと思ったらそれを貫き通すくせがあり、相手にもそれを求めてしまう。

相手も、それが正しいと思っていても、だからって一足飛びにそれができるようになるわけでもない。

そこを、また私が責める。

はるか

そりゃ、怖いわ。

されたら嫌なこと、してたし、今もそれは多少残ってる。

変わったところがあるなら、私はそれを一応「認められた」ってことかなぁ。

そもそも私は夫や子どもと「関係をよりよくするため」に、改善策を練ったはず。

なのに、結果的に反対方向にいってしまったってわけです。

あさっての方へ向かう暴走車を見れば、そりゃ夫でも怖がる、ということでした。

子どもを見ていると自分の純粋さがどこに飛んで行ったのか探したくなる

さて、「純粋さ」に話は戻ります。

私の作品、いくつかあるんですが、読んでくださった(大人の)感想に多いのは、

「ものすごく純粋で、すてき」

というもの。

感想をいただく度に、うれしいな、ありがたいな、と思います。

でも、我が子を育てているうちに、本物のまじりけのない「純粋さ」を見て、つい「ははは」と乾いた笑い声を出してしまいます。

私が作ってきたのは、いかに純粋に見えるか、ではないか、と。

そりゃ大人ですからね、世の中のいろんなものにもまれてここまで来ました。

それを誇りにも思っています。

でも、あまりにも子どもの純粋さと差がありすぎて、その結果が「ははは」です。

ははは。

そして、最近思います。

子どもに寄ってくる全ての悪いものから守ってあげたい。関わりのない人生を送ってほしい。

でも、それって、最小限にはおさえられてもなかなか難しいんですよね。

もう保育園に行ってるので、一日の大部分は私から離れて生活してますし。

これからはもっともっと遠くなるかもしれない。

じゃあ、私は何ができるのか。

今、何ができているのか。

これも最近思うのですが、子どもにも夫にも友人達にも……

何かを「してあげる」ことより、私の中の悪いものから周りを守ることが大事なんじゃないか。

もちろん、愛情は行動あってこそのものかなとも思いますが、

私が何かすることで、あるいは「何かしない」ということで傷付けたり、誤解を生んだりすることもあると考えたんです。

これから子どもや周りにくるであろう「悪」よりも、自分から流れる可能性のある「悪」を食い止めること。

自分の「悪」で周りを脅かさないこと。

「えっ、こんなこと・そんなことで傷付くの?」

と思うことも、正直あったりもしますが、感情は人それぞれだし自由です。

子どもを相手にしていても、「えー、こんなことで機嫌悪くなるのか……」ってこともしょっちゅうです。

でも、その人のことが大好きなら、正しさがどちらにあったとしても、傷付けてしまった方がやっぱり良くないと私は思います。

特に夫婦関係。

法に触れるようなことは一切してないし、しょうもないことってわかっていても、互いにちっぽけなことで不機嫌になります(笑)

つい「私が正論だろう!」とか思ってしまいますが、結局は悲しませたことには変わらないので、そこはきちんと謝ることに(努力を)しました。

大人においての純粋さって、どこから見出すものなんでしょうね。

やっぱり、誰かと誰かの関係の中で、注意深く相手を見て、単純に受け止めることかなぁ。

いろいろ考えて、あれもこれもやりたい、やってほしいと思うから欲が出て、結果的に必要以上に複雑になり、どちらも傷付く。

なるべく清く純粋でありたいなぁ。

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子どものやさしさ・親への愛情・それを形に表すこととそれを受け止めること

さて、前置きがかなり長くなりましたが、子どもと何があったのか。

先日、子どもの習い事の帰りに家族3人でスーパーに行ったんです。

パンコーナーにさしかかった時、子どもはすかさず自分の好きな(ポケモンの)パンを見に行きました。

はるか

今日は買わないよ!

前は買ったし、ということで私はこう言って、ちがうコーナーを見に行きました。

しばらくすると、子どもは手に「お赤飯」のパックを持ってやってきました。

お赤飯は私の好物で、割引していたらたまに買うものでした。

ちなみに、子どもはお赤飯は好きじゃありません。

はるか

お母さんがお赤飯好きやから持ってきてくれたん?

そう聞くと、ニッコリ笑います。

うーん。

もちろん、お赤飯は大好きです。

でも、わりと最近食べたところでしたし、いつも買うとすれば割引している時と決めていたので……

とりあえず、子どもには「ありがとう」と言い、でも今日はいいかな、と伝えました。

子どもは「せっかく持ってきたのに」といった顔でカゴにお赤飯を入れようとしました。

私は「この前食べたとこだし、また次の機会に持ってきて」と言いましたが、子どもは納得いかないようで……

気が付くと、子どもは目の前からいなくなっていて、もう気が済んだのかな?と思いました。

私はお赤飯を元の位置に戻し、買い物をつづけました。

しばらくして、会計しようとした時、夫が一人でやってきました。

はるか

あれ、坊は?

夫が言うには、坊はビールコーナーから動かない、とのこと。

夫にビールを選んであげたいらしいのです。

夫はビールが大好き。

でも、私がお赤飯を選ぶ時のように、お得なキャンペーンや割引がある時ぐらいしか買いません。

それに、高いビールはめったに買いません。

子どもが夫に選んだのは、夫が普段選ばないものだったようで、私がお赤飯を拒否したように夫も断ったとのこと。

はるか

ああー

お母さんを喜ばせられなかったから、次はお父さんと思ったんでしょうが、このありさま。

すぐに荷物を置いて抱きしめましたが、坊はずっと黙り込んだままでした。

帰り道、坊はずっと泣きそうで、いつもなら自分から手をつないでくるのにそうすることはなく、私がつなぎにいっても嫌がりました。

夫と私は顔を見合わせ、どうするべきだったかを話しました。

いつの日か、坊が自分のお小遣いで買ってくれる日が来たなら、もちろんありがたく喜んで受け取ったでしょう。

でもうちの坊にはそれがわかりません。

チラッとお金のことを話しても、坊にとってのやさしさは、「お金を自分で払った」ではなく「選んであげた」なのよね。

どうしたらよかったんだろう。

やさしい気持ちからきたこの「お赤飯&ビール事件」ですが、帰宅して夫とお風呂に入ったら、もうサッパリした顔をして、いつも通りのおしゃべりに戻っていました。

寝る前に、今日のことを聞いてみたら、やっぱり「悲しかった」とようやく気持ちを言葉にしてくれました。

はるか

お赤飯やビールは受け取れなかったけど、そのやさしい気持ちは嬉しかったよ

と、スーパーで抱きしめた時に言った言葉をもう一度言うと、やっと一つうなずきました。

人の言葉って、受け入れる準備がないとなかなかできないものなのかもなぁ。

親の子であり子の親である中間的世代になった今・愛される/愛すことについて考える

私は適当だしすぐに何か見落とす、親としては頼りない存在だと自覚しています。

でも、子どもはそんな私でも「大好き」と言ってくれ、その度にありがたいなと思うんです。

無条件に人を愛すってなかなかできることじゃない。

信頼関係があるからこそで、何かをしてくれるから、ではない。

自分の親のことを考えても、自分が思う愛し方から少しずれていたとしても、やっぱり大好き(笑)

血のつながりがあっても、やっぱり一人の人である限り、「合う・合わない」はあるけれど、そこも「ちがうねー」とのほほんとしていられたら最高だなぁと思います。

きっとこれから私は、子どもの「できないこと」にハラハラしたりするのかもしれない。

でも、だからって嫌いになったりはしないので、安心して失敗できる信頼関係を築いていけたらって切に思います。

 

心を整理するために書いていたら、けっこう長くなったな。

ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。

近年は、立派な母親はあきらめました(笑)

応援し、応援される親子関係を目指します。

親の数だけ親のスタイルがあるなら、うちは周りからみると「それ、どうよ?」と思われるかもしれませんが、

本当の幸せって何なのか、親子で話し合ったり追い求めることで絆を深めていけたらいいな。

 

こちらは、母娘のことにも注目していただけたらと思う拙著です。

 

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