こんにちは、嘉成です。
近年のブログって、4つに分かれると思うんです。
- 自分のためのブログ
- だれかのためのブログ
- だれかのため!と見せかけて自分のためのブログ
- 自分のため!とか言いながらだれかのためになってるブログ
うちのブログはどうかな?と考えたところ、全部あてはまるんじゃないかと思うんですがどうでしょうか(笑)
私がネットに文章を書くようになったのは13歳の子どもの時
私がネット上にものを書くようになった最初は、13歳の時でした。
まだケータイを持っている人はめずらしい時代です。
もちろんスマホなんてないし、ネットもけっこう高額だったはず。
でも、夜中だけは安くなるプラントかあったんですよね。
うちはそれに入っていて、確か……スタートは夜何時からか忘れちゃいましたが、終わりは朝の7時までだったんです。
ということで、私は早起きしてネットを使ってました。
はるか
毎日じゃないです。
姉も使ったりしてたので、各日ぐらいとか。日曜だけとか。
検索すれば情報が集まる、だれかとつながれるという喜び。
私はその早朝3時間をとっても大事にしていました。
パスラさん
初めてブログっぽいサイトを持ったのも、この頃です。
それまでは、自分の話し言葉を文章にするなんて、「交換日記」くらいだったんですよね。
なので、最初はどこか違和感がありましたが、すぐに慣れていきました。
真冬とか、夜中の4時はすごく寒くて、でもストーブで手をあたためながらマウスにぎってました。
時間が経つとだんだんと窓辺が明るくなってきてさ。
一日が始まるのに、どこか終わったような、そんな気分だったな。
mixi、そしてfacebook、Twitterとの出会いが心の内を表に出していく習慣化させた
これまでで1番、心の中を表に出す場だったのは、SNSでした。
まず、大学に入ると同時に、友人からmixiを紹介されました。
私はすぐにはまり、毎日、なんてことない日々をつづりました。
この頃が一番、素直に、ストレートに気持ちを文章化していたように思います。
変な技術的なことを考えることなく、ただダイレクトに。
若かったと言えばそれが一番の理由かもね。
はるか
当時の恋人との喧嘩を詳細に書いてみたりと、今から思うとものすごーく恥ずかしい(笑)
ちなみにこの頃の日記は、あることがあって全削除してしまっています。
ほんとにもったいないことしたと思います。(執筆活動の資料として)
でも、自分が大事に書いてきたものを全部消してしまうようなことがあったのも、思春期そのものというか、そんな気もします。
ということで、mixiは私にとって多感だった青春時代そのもの。
はるか
その子に教えてもらったのが、facebook。
いろんな国から外国人が来ては数週間~数か月滞在し、彼らはせっかく友達になってもすぐに帰っていきました。
でも、facebookのおかげで、いつでも近況を知ることができました。
外国の、異文化の人達がどんな感性をもっているか、知るきっかけにもなりました。
私は徐々にmixiからfacebookに移行していきました。
それから結婚後、作家としてデビューしてからTwitterを始めました。
facebookもしますが、心のささいなことは、Twitterで発信するようになりました。
ある意味、mixiにも書かなかった小さなことまで書くようになりました。
はるか
そしてこのブログは、始めて1年半ぐらいになります。
記事数は300を超え、たくさん読まれたり読まれなかったりしています。
でも時々感想をわざわざいただいたりと、少しずつ愛されるブログになってきたんじゃないかとちょっと自惚れています。
心の中を文字にするということはたくさんの考えをまとめなければならない
よく聞くのは、文字にするにはその10倍くらいのことを考えなければならないということ。
つまり、文字にするって、かなり力がいるんですよね。
情報を取捨選択したり、まとめたり、優先順位を考えたり。
でもね、これって誰でもできることだし、正解なんてない。
だから、文章はおもしろい。
でも、確実に「読みやすい」とか「おもしろい」「興味深い」「もっと読みたい」と言われる文章はあるわけで。
だからって、みんながみんなそれを求めなくてもいいし、もちろん探求してもいいし。
自由。
そして、文字にすると残ってしまうから、正直責任も生まれる。
私も、知らず知らずのうちに、おそらく何人もの方々を不快に思わせたり傷付けているかもしれません。
けれど、私は文章を書くことを、気持ちを表すことをやめません。
まず、自分のため。
そして、同じように思ってくれる方と慰め合えるように。
そして、誰かの気付きになるように。
また、反応があれば私の気付きになるように。
私がブログを書くのは、頭の体操で、心の整理。
はるか
ただ一つ言えることは、「楽しい」です。
パソコン一つで、こうも自分の世界を広げられるんだから。
ものすごくプライベートなことは、日記がイチオシ。
心の中を物語にするということはダイレクトではないけれど拡声器になる
言いたいことがあれば、直接言えばいいんです。
ブログとか、SNSとか、道端でもいいし、抗議文でもいい。
じゃあ、どうして私は物語を書くのか。
こちらもどうぞ:
人って、自分のことを思ってくれる人の言葉って、なかなか伝わらなかったりします。
例えば、母親が子どもに言う「あぶないからやめなさい」みたいなこと。
友達が助言してくれた「こっちのほうがいいよ」とか。
そして、会ったことも見たこともない人が書いた作品の中の、登場人物の一人のセリフ一つに感激したりします。
作者は読者の顔はもちろん名前も知るわけありません。
もちろん名乗ってくださったら覚えるんですが、作品を書いている時点では全員を把握できるはずはありません。
なのに、時々、ピンポイントで刺すような1点が書けるんです。
読者は、「自分のために書いてくれたんじゃ?」と錯覚するほどにビックリ。
私もこんな本にたまに出会いますが、とっても嬉しく、愛おしくなります。
物語を書くことは、心の中の伝えたいことをダイレクトではなくても、拡声器のような役割があるんじゃないかと思います。
どんなに静かな物語も、名作はもうほんとにボリュームが大きい。
頭の中で言葉が躍り、震え、とにかく心地よく響く。
その作品にとって耳がいい人に、物語は届く。
ストレートに「〇〇」と言うよりもダイレクトな方法になることもある。
それが、物語なので、私は書くのをやめられないな。
物語と読者を結んでくれるのは神様しかいないので、その様子を見られるのも、ほんとに楽しい。
自分の心の中を、物語の登場人物の心を通して読者の心に届けるのは、なかなか難しいけどね。
実は、心の中を表現するのって気恥ずかしいこともあるから、そういう意味では物語はカモフラージュにもなるからいいんですが。
とか言いながら、物語って、作者が全裸になって歩いてるようなものなので、やっぱり胸のあたりがモゾモゾすることも多いんですよ。
なんにしろ、物語を書くことは、生きることになってきたなぁ。
トップの写真は、近所の紫陽花。
白いアジサイって、土が中世なのかな?
たしか、pHによって青になったり赤くなったりするんよね。
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