こんにちは。児童文学作家の嘉成晴香です。
先日、我が家に少し大きめの封筒が届きまして、何かなと開けると、PHPが。
私の子どもの頃の、かかりつけ医であり、絵の先生であり、人生の恩師でもある石井先生からでした。
おお、このPHPって、スーパーやコンビニでも売ってる月刊誌じゃないですか!
同封されていたお手紙によると、先生のエッセーが載っているんだとか。
PHPの「生きる」というコーナーにPHP賞受賞作として先生のエッセーが!!
付箋を貼ってくださっているところを開くと……
わぁ!!
石井先生のお名前が、載ってる!!!!!!!
感激して、一気読み。
そして、泣きました。
初めて出会ってから、もう20年以上経っているというのに、私は石井先生の生い立ちを全く知らなかったのです。
涙は出ましたが、それは悲しかったからではありません。
感激したというか、ただただ嬉しかったのです。
生い立ちが知れたということより、恩師にも恩師がいたということ。
そして、人間は、良いものを下の世代へと受け継いでいるということ。
その先に私がいられた幸運に。
内科のお医者さんが私の絵の師匠
石井先生は、私が小学生の頃、月に1回、第二土曜日に、「絵画同好会」というのを開催してくださっていました。
私はそれまで、風邪をひく度に「石井内科」に通っていたわけですが、先生が絵を描かれるということは知らず、絵画教室(私はそう呼んでいた)には近所の同い年の友人が誘ってくれました。
その頃の私は、絵を描くのは好きでしたが、いつも対抗心を(なぜか)燃やしていた4つ上の姉と比べるとあまりにも下手くそで、コンプレックスでした。
好きなので描いている時は楽しいのですが、できあがって撃沈。
学校の先生の評価も、図工はいつも微妙な感じ。
そんな時、友人に誘われたのです。
はるか
残念ながら小学校では、クラスの人数も多いとおいうこともあり、先生は個別指導してくれるということはなかったのでね。
学校で孤立していた時期も「絵画教室」が居場所になった
小学校時代、私は人間関係がうまくいった時期がほとんどありませんでした。
そんな私にとって絵画教室は、月に1回の「居場所」でした。
紹介してくれた友人が他の趣味を見つけてあまり行かなくなっても、私は一人で参加。
行けば、先生の病院の看護師さんや、近所のおばあちゃん、お姉さんやお兄さんも来ていて、かわいがってくださいました。
先生の病院が入っているビルの広い一室を借りて、そこにブルーシートをしき、真ん中にモチーフをいろいろと並べてみんなで描くのです。
画材は、水彩にパステルに色鉛筆をはじめ、油彩も。
時にはお皿の絵付けまでさせてくれ、それは先生のご自宅で焼いてもらい、後日いただきました。
今日は何ができるんだろう。
今日は何を教えてもらえるんだろう。
今日はどんな話をしようか。
第二土曜日が待ち遠しくて、待ち遠しくて、子どもながらに「毎週あればいいのに」とか思ってました(笑)
石井先生の絵の教え方が私の理想の先生像
思えば、当時は何も考えてなかったので、石井先生にはたくさんのご迷惑をかけましたが、私は絵画教室のおかげで何とか毎日を過ごせていました。
そして、絵のコンプレックスはどんどん薄れていき、図工の成績は「優」になりました。
何か絵を描くようなことを誰かがしなければならない時は、すぐに手を挙げるほど、前向きになっていました。
どうしてそうなれたかというと、石井先生と絵画教室の皆様の私への接し方がすばらしかったからだと思います。
まず、
決して子どもの絵を否定せず、どうしたら上手になるか最後に加えて教えてくれる
まず、石井先生は、どんな人の絵も否定するようなことは一切ありませんでした。
そして、最後にちょこちょこっと先生が色を描き加えてくださり……
ぼんやりとした絵も、パッとするというか、めりはりがつくというか、「いい感じ」にしてくれたのです。
絵の具の混ぜ方、パレットの使い方、画材の洗い方まで、先生は何だって丁寧に教えてくださいました。
うまく描けたところをこれでもかと褒めてくれた
そして、上手にできたところや、工夫したところは、必ず見つけて褒めてくれました。
多分気付かないだろうなと思っていた「私なりに工夫したところ」も、とりこぼすことなく褒めてくれたのです。
子どもの私にとって、これほど嬉しいことはありません。
親に褒められるのも嬉しいことですが、他の大人に褒められるということは、またちがった喜びがありました。
そして、その様子を見て周りの同好会のメンバーもいっしょになって褒めてくれ、私は「もっと描きたい!」と思うようになりました。
本当に、絵画教室は楽しかったのです。
通い始めて数か月経った頃は、始まる30分前には教室に行き、最後の部屋の片づけの時までいました。
絵画教室用の画材かばんは重く、でもそんなこと全く感じませんでした。
家ではやりにくい油彩のようないろいろな画材を試させてくれた
油絵で絵描きの仲間入り気分
今はどうかは知りませんが、小学校では「油絵」はしませんでした。
最初は水彩や色鉛筆で絵を描いていた私ですが、途中からは油絵を教えてもらいました。
両親にねだり、油彩のセットをそろえてもらったのもいい思い出。
(油彩って、全部そろえるとけっこう高いんですよね……)
油絵といったら、昔の有名な画家が描いているイメージだったので、自分もその仲間入りができたような気がしてワクワクしたなぁ(笑)
その時の感情は、『夢見る横顔』に書いています。
パステル画では先生のパステルを使いつくす
他にも、パステル画も教えていただきました。
パステルって、クレヨンとはまたちがった味わいがあるんですよね。
楽しくって、自分のでもないのに先生のパステルを使いまくってました(笑)
すみません……
また、パステルで紫陽花描きたいな。
今度こそ、自分用の買おうか考え中。
他にも、顔彩を使って絵手紙を教えてもらったりも。
これも、気の利いた言葉を考えたりしながら描くのが楽しかったな。
常に自由に描かせ、話させてくれた
皆さんに褒められて過ごすわけですから、私は調子にのるわけです。
でも、そんな私も先生はいつもニコニコ受け止めてくださって、自由にさせてくださいました。
描きながら、学校のことで悩んでいることを聞いていただいたりも。
絵画教室の時でも、風邪気味だと、すぐに診てくれました。
大きくなっても、いつもいつまでも応援してくれる
絵画教室は、第二土曜日が先生の研究会か何かのお仕事になってしまい、閉会となるまでずっと通いました。
私は成長し、そんなに風邪もひかなくなったことから、先生の病院にもめったに行かなくなりました。
けれど、毎年年賀状をやりとりしたり、私が作家デビューした時も我が子のように喜んでくれました。
ちなみにデビュー作『星空点呼』
すばらしい恩師との出会いは人生の宝
もし石井先生と出会えていなかったらどうなっていたか。
人は、大切な誰かから大切な何かを受け取って、膨らませて、また譲っての繰り返す。
それが歴史なんだなと、今思います。
私はまだ膨らませている途中。
大人になった今の私の恩師は、幸いにも石井先生だけではなくなり、今は方々から愛情や知恵をいただいています。
いつか私も誰かに受け取ってもらえるようになりたいな。
先生のエッセー「頑張ったら、きっとなれる」を読み、私も母に「晴香は何にでもなれる」と子どもの頃言われて育ったので、それを思い出しました。
当時は「そうなのかな」とかと思いながらも「現実はそんなに甘くない」なんてことを考えていましたが(笑)
ただ一途に自分に正直であれたことから、いろいろなものに手をだしたのに今では全てが線でつながり、子どもの頃の自分が聞いたらびっくりするような状況に今はいます。
頑張ろう、と思います。
これからも。
コメントを残す